12月某日。 今日もまた、雪ではなく雨だ。 … どうも おかしい。 フツーに来てくれよ、冬。
佐沼の農業量販店へ届け物があった そのついでに、本屋へ寄る。 人はマバラの 広き店内を のらりくらりと うろつけば、2年前の12月に逝かれてしまった 中村さんの本と 出逢ってしまう。 「… またもや 宮沢賢治なのね」 … これもエニシと、大干ばつ地帯に ミドリを育み 笑顔たる中村さんを 手に取り、レジに向かう。
ラジオ出演での インタビューそのままに まとめた一冊で、滔々と語る中村さんのお話しが、生々しく・純粋に 綴られておる。
「・・・現地に合った、効果のある協力というのは、これはやはり上から、日本の、あるいは援助する側のアイデアで何を始めるのではなくて、下から上を見ると言いますか、地元にとって「これがいるんだな」「あれはいらないんだな」ということがわかって・・・」
第一章 ハンセン病根絶を目指して(1996年2月22日 49歳) より
「・・・わたしたちとしては、まず、病気の予防という意味から始まって、ともかく水がないことには人間生きておれませんから。 食べ物がなくても数週間は生き延びられますけれども、水がないと二十四時間生きられない。だから、まず水だということで、総動員して清潔な飲料水を確保する・・・」
第二章 もの言わぬ民の命を(2002年2月16日 55歳) より
「・・・本当にこれは、日本の方々は知らないと思うんですよね。政治情勢ばっかり伝わって、戦争の話だとか、難民がかわいそうだとか、教育だとか、もちろんそれも大事かもしれませんけれど、いま、アフガニスタンの人が一番困ってるのは、食べ物がつくれないことなんです。ほとんどが自給自足の村の集まりですから・・・」
第三章 アリの這う如く(2004年6月5日 57歳) より
「・・・男も、女も、子どもも、動物も、昆虫も、鳥も、みんな喜んだと思いますね。 やっぱり命というのはですね、水が元手なんだなあと。わたしはつくづく思いましたですね。 みんなですね、本当に喜んでいましたね。これは、なかなか口では言いがたいものでありまして。 やっぱり、一つの奇跡を見るような思いがしましたですね・・・」
第四章 命の水(2005年8月20日 58歳) より
「・・・東部の農村地帯で見る限り、敵が誰だかわからないというのが現実でありまして。実際に外国軍が入っていくと、怪しいということでいろんな施設を爆撃する。なかには、モスクだとか、学校だとかで被害者が出ました。モスクを爆撃するというのは、現地では反タリバンでもやらないことです。それを異教徒の外国人がやるとなれば、反感が地域に広がるのは当然です・・・」
第五章 難民と真珠の水(2006年9月16日 60歳) より
「・・・現地で働いてれば、普通の若者ならそういった魅力といいますか、感じるでしょうね。自分のしている仕事がたしかに人のためになっているだとか、そういう実感がわく仕事なんです。だから、ただ生活するために働くのではない。何か、現地の人間関係にしても、日本人にはない温かいものがあったりして、それで一種の郷愁を感じるというのが普通でしょうね・・・」
第六章 開通した命の用水路(2009年12月5日 63歳) より
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ワタシの心を 揺さぶり・昂らせた『話し言葉』の、ほんの ゴクゴク一部を 抜粋させていただいた。
そして 本は、終章(2019年12月4日、絶筆となった会報誌)へと 紡がれてゆく。
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ワタシの 無知さ加減を知らしめ・さもしい人生を痛感しながら、感動いたしました。
どうか みなさん、ぜひ この本の ページをめくっていただき、『尊き人』中村さんの『告白』を、聞いてみてください。